第三章.日本へのウイスキー輸入開始|日本のウイスキーの歴史

1.日本初の洋風ホテル

ペリーが日米和親条約を幕府と締結し開国を果たしてから、更にその4年後。
1858年6月アメリカ総領事タウンゼントハリスが日本との貿易を本格的に開始する為、日米修好通商条約を結びます。
同時期にオランダ、ロシア、イギリス、フランスの4か国とも修好通商条約を交わした結果、各国の商人が来日し海外のあらゆる文化が堰を切ったように流れ込んできます。
修好通商条約の中には外国人の住む居留地、及び商いをする場所を提供する事が含まれていました。
それによって海外からの押し寄せてくる情報や文化、それらに対する幕府の対応に様々な不満の声やこれからの日本を憂う声が生まれ、1860年(万延元年)に起きた桜田門外の変、1863年(文久3年)の天誅組の変や生野の変、薩英戦争など坂本竜馬らをはじめとした倒幕派と、尊王攘夷派とに分かれ、当時の日本は混乱を極めていました。
そんな動乱の最中でも海外の商人たちは、開かれた各地の港でたくましくその商才をいかんなく発揮していったのです。

1-1 船長フフナーゲルのホテル

1859年に横浜外国人居留地は出来たばかりでまだ宿泊施設がありませんでした。
この時オランダ船籍の帆船ナッソウ号船長フフナーゲルは、1859年(安政6年)11月頃横浜でナッソウ号を売却し1860年(万延元年2月に横浜外国人居留地内に「横浜ホテル」を開業しました。
ちなみにナッソウ号はその後、貯蔵船として利用されています。
歌川貞秀の書いた絵図にはナッショウ住家と書かれていますが、これはナッソウ号に由来するものと思われます。

「御開港横浜大絵図 二編外国人住宅図」 作 歌川貞秀

諸説ありますがこの横浜ホテルが日本で最初のホテルとされており、さらにホテル内に日本初と言われているバーもありました。
残念ながらこのホテルは1866年(慶応2年)に横浜居留地で起きた大火事「豚屋火事」で焼失してしまい、ほとんどの資料が残っていませんが、このホテルを利用したという著名人は多く、ドイツ医師で博物学者であるシーボルトやペリーにも随行していた画家のヴィルヘルム・ハイネなどが宿泊したという記述があります。
その他、首都をベルリンに置くプロイセン王国のオイレンベルグ伯爵が日普(普とはプロイセンの事)修好通商条約を結ぶため1860年に上陸、その様子を同行していた商人グスタフ・シュピースは自著『シュピースのプロシャ日本遠征記』でこう記しています。

 

建物自体は日本家屋だが、風通しの良い食堂と、撞球(ビリヤード)室、バーなどが備わり、部屋にはテーブル、イス2脚が備わっていたと書いている。しかし、ベッドは「一種の寝台」とし、窓やストーブもなかったともしている。1860年当時の横浜ホテルは、横浜外国人居留地で唯一の撞球が出来る場所として人気があったともいう

その他、シーボルトの紀行文の一節にフフナーゲルの横浜ホテルに泊まったことと、料金が1泊2ドル、1ヶ月連泊で50ドルだったことの記載があります。

この日本初のホテル「横浜ホテル」内のバーにどんなウイスキーが置いてあったのかという記述は、実はハッキリとしたものは残念ながらありません。
しかし、来日してきた外国人が書き残していった資料や貿易の記録からわずかにウイスキーに関する資料がありましたので銘柄などの断定は難しいですが、ご紹介したいと思います。

※協力 横浜市中央図書館 横浜開港資料館 神奈川県立歴史博物館 川崎市市民ミュージアム(順不同)

1-2 チャールズ・ワーグマンが記した風刺画「ジャパンパンチ」

イギリスの週刊新聞「イラストレイテッドロンドンニュース」の特派記者兼、挿絵画家としてチャールズ・ワーグマンは1861年4月25日に日本の長崎に来日し、その後イギリス公使オールコックの一行に伴って、陸路を通り江戸まで旅行します。
同年5月28日にイギリス公使館となっていた東禅寺にて「外人男性に神州日本が穢された」とし攘夷派の水戸藩浪士の襲撃を受けてしまいます。

出典元 Wikipedia ワーグマンが描いた東禅寺の襲撃の様子

この時ワーグマンは、縁の下に避難しながら事件の一部始終を記録し、これを記事とスケッチにしています。
1862年には居留外国人向けの雑誌『ジャパン・パンチ』を創刊。

ジャパンパンチ表紙

これはイギリスの風刺漫画雑誌『パンチ』を模したものでポンチ絵の語源ともなっています。
横浜居留地の人々の暮らしや日本政府への批判、同業の英字新聞への攻撃などを風刺漫画と文章で描かれています。
第2号は1865年に発刊され、その後22年間にわたって月刊誌として刊行されていきました。
ジャパン・パンチは安政五カ国条約、日本の国際関係、日本の国内政治、メディア報道、外交・経済界の著名人のユーモアを交えた批判や風刺を掲載していました。
また、横浜の外国人居留地の多様性についても触れており、ワーグマンは「パンチ」の中で、「337カ国の国籍を持つ人々」が企業を経営していると述べています。

 

日本語と英語が混在するパンチ絵

ワーグマンが英語、ドイツ語、フランス語に精通し、様々な言語を操ることに長けていた事により、コミックを活用して、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、日本語、中国語、オランダ語を含む複数の言語で書く事で、多くの人を巻き込み、コミュニケーションを図ろうとしました。

ジャパンパンチは1862年から1865年の間に休刊しています。
これは幕府が他者を誹謗中傷する内容を掲載した場合、処罰すると通達した為と言われています。
幕府にまでジャパンパンチの動向が認知されていたという事は、当時の一般の日本人も読んでいた可能性は有ると言えるでしょう。

ブルボン王朝を語源に持つバーボンと徳川家を重ねている。かつてのブルボン王朝と幕府崩壊を駄洒落ネタにする事で痛烈に批判していると思われる資料

上記にあるようにジャパンパンチに掲載される内容には、お酒が度々登場しています。
当時の一般の人にもウイスキーという言葉くらいは聞いたことがあるという人が居たかもしれませんね。

1-3 日本で最初のバーテンダー ジェイムス・B・マコーレー

前述のように、フフナーゲルが経営していた横浜ホテル内にはバーがありました。
このバーカウンターに立っていたのがイギリス国籍のジャマイカ人、名前は「ジェイムス・B・マコーリー」

画像出典元 バーテンダーCATMANのブログ ロイヤルブリティッシュホテルの開業を知らせるヘラルド紙

「男爵」というニックネームを持つ彼は黒色人種のバーテンダーでした。
当時はバーというよりも西部劇に出てくる酒場の主(あるじ)に近い存在だったようで、バーの利用客は賭けビリヤードに興じたり日本での外国人に対しての扱いによる不満や愚痴などのはけ口となる場として利用される事も多かった事から、口論や喧嘩は日常茶飯事でバー内でピストルの打ち合いもあったとあります。
またバーのドアの上にあった大きな掛け時計に弾丸の跡が沢山残されており、これはピストルの試し撃ちの標的にされていたと言います。
ならず者ばかりが居るバーで屈強なマコーレーはボディーガードとしての側面もあったことでしょう。
フフナーゲルの元を離れたマコーレーはその後、1862年10月25日居留地85番に「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」を開業します。

「チャールズ・ワーグマン作品写真帖(フェリックス・ベアト撮影)」掲載 川崎市市民ミュージアム蔵

マコーレーと思しき人物が客を怒鳴りつけている様子が描かれています。
この風刺画から察するに当時の横浜居留地は相当な無秩序な場所であったことが伺えます。
この頃、横浜市民は外国人に対して良いイメージを持っておらず、寄港した船がいつの間にか出航してしまい取り残された水夫がホームレスになってしまったり、道端で酒に酔い潰れてしまい近隣の迷惑になっている苦情を受けたとされる記録が残っています。

画像出典元 バーテンダーCATMANのブログより「横浜開港見聞誌 」酩酊する水夫を描いた図

1862年頃には様々なホテルや町酒場といった商業施設が次々と開業し、それに伴い多くの洋酒が外国人に向けて輸入されてきました。
「Wheat Sheaf」と言われるウイスキー、オールドバーボン、アイリッシュ、スコッチが輸入されていた事が1864年のジャパンヘラルド紙の広告欄にて確認できます。
その他ジュネバや「オールド・トム」を含む数種のジン、「シャルトリューズ」やマラスキーノ、キュラソーやミントのリキュールなどが輸入されていたようです。

 

画像出典元 ウイスキーマガジン 1964年のジャパンヘラルドの広告
「チャールズ・ワーグマン作品写真帖(フェリックス・ベアト撮影)」掲載 川崎市市民ミュージアム蔵

1-4 英一番館

2章のペリー来航でも触れた「ジャーディンマセソン商会」は開港していち早く出店しており、現在の神奈川県横浜市中区山下町1(旧山下町居留地1番館)に横浜支店を設立、地元の人々からはその番地から取って「英一番館」という名前で親しまれていました。
この横浜支店が日本に進出してきた初めての外資系企業となります。
おそらく自社のスコッチ、「オールドヴァテッドグレンリベット」も取り扱っていたと思われます。
この横浜支店も豚屋火事で焼失してしまいますが、現在横浜市中区一番地には「シルクセンター」という横浜港における生糸・絹産業及び貿易の振興並びに観光事業の発展を目的とした施設が建っており、入り口にはかつて英一番館があったとされる記念碑が設置されています。
余談ですが「ジャーディン・マセソン商会横浜支店」を設立した「ウィリアム・ケズィック(商会の創始者ウィリアム・ジャーディンの姉の子のさらにその子供)」は後に「伊藤博文」をはじめとした「長州五傑」またの名を「長州ファイブ」と呼ばれる5人のイギリス留学を支援しました。

1-5 謎の猫印ウイスキー

現存する資料の中でウイスキーの商品名がはっきりと出てくる最古の記録が、大政奉還が成立し明治に元号が変わって4年後の1871年
横浜のカルノー商会が「アイリッシュウヰスキー猫印」を輸入したとされています。

下記の逸見山陽堂(のちのサンヨー堂)発行の相場表は明治30年のものになりますが「アイリッシュウヰスキー猫印」「鹿印ウヰスキーローマルブレンド」とあります。

出典元 ウイスキーマガジン 明治30年4月の逸見山陽堂発行の相場表

鹿のシンボルマークはスコッチウイスキーのラベルによく使われていますが、鹿印ウヰスキーローマルブレンドがスコッチであると断定できる資料は残念ながらありません。(※2022年12月追記 後述の特許翻訳者である水野麻子氏ご本人様から連絡を頂き、さらに解明できた事があるので追記していきます。)
長年謎の鹿印ウヰスキーでしたが水野氏のブログ特許翻訳 A to Zの最新記事にて「鹿印ウヰスキーローマルブレンド」はダルモアであったのではないかという記事をアップしてくださっています。
以下のリンクよりチェックしてみてください

1839年にダルモア蒸溜所はアレクサンダー・マセソンによって創立されています。
アレクサンダー・マセソンは、ジャーディンマセソン商会の初代ジェームズマセソンの甥にあたる人物です。
ジャーディンマセソン商会の代表として東アジアとの貿易を行っており、日本にウイスキーを持ち込んだ最初の人物の一人だとも言われています。
一方、アイリッシュウヰスキー猫印の方はどのような商品だったのか?
これについてウイスキー文化研究所の土屋守氏や、ウイスキーマガジンの石倉一雄氏がバークス (Burke’s)社の「BURKE’S Fine old Irish Whiskey」であったのでは無いかという見解を述べています。
この見解から
特許翻訳者である水野麻子氏が世界の特許データベースを駆使し、とても興味深いブログを書かれているので、ご紹介したいと思います。
水野氏が特許という視点から紐解いていく過程で発見された、明治時代に日本で活動していた商社を網羅した海外サイト「Meiji-Portraits」というものがあります。
その中でwhiskyと検索して出てくるのが

 

「J. Curnow & Co.」の表記。
おそらくカルノー商会と思われます。

 

画像出典元 特許翻訳AtoZ

驚く事に「ジャーディンマセソン商会」が扱っていた