5.ヘンコツと言われた二代目
1946年(昭和21年)
信治郎の居る社長室から怒号が響き佐治敬三が飛び出していくのを何人もの社員が見ており、その都度三男の鳥井道夫に信治郎は漏らします。
「あいつはヘンコツや」と。
ヘンコツとは大阪弁で変わり者、気骨、反骨、ひねくれもの、といった意味がありますが信治郎自身もヘンコツであると言え、自身を棚にあげている所がなんとも親子である事を感じさせるエピソードと言えます。
後に「寿屋」から現在の社名「サントリー」に名を改め、信治郎が断念したビール業界をトップに押し上げるという偉業を達成し、サントリーホールの建設や美術館など日本の芸能、芸術の発展に多大なる影響を及ぼす事となる佐治敬三が1946年(昭和21年)2月1日に入社します。

5-1 佐治敬三
佐治敬三は鳥井家の次男として1919年11月1日に産声を上げます。ひばりが丘の住居から近くの「家無き幼稚園」という一風変わった幼稚園に入園。
その特徴は園舎を持たずに、公園や河原、里山などの戸外で保育を行うという教育方針でした。
卒園後、小学校は電車で5分の、大阪府北端の池田にあった府立師範附属小学校に通う。
1932年(昭和7年)浪速高等学校尋常科に入学するも虚弱体質が祟り肺浸潤(はいしんじゅん)を発症し留年してしまいます。
小学生の頃、養子縁組の話が持ち上がりこれ以降、佐治姓に変わる。
この時の事を敬三はこう回顧しています。
小学校6年を終ったたしか春休みの頃、私は誠に重大な人生の転機に出逢うことになる。養子である。
両親はその事をとうの昔から承知していたのであろうが、私にとっては正に青天の霹靂(へきれき)、今の今まで鳥井姓を名乗り、両親の元で何不自由なく過ごしていた自分が、明日から他人の姓に変わる。
本当は何がどう変わるのか知っていた訳ではないけれど、ただ無性に悲しく、やり場のない思いに母の膝にすがりついた。
三朝温泉への旅は、この頃のことであったと思う。
「中学入学と同時に私の姓は鳥井から佐治に変わったが、生活は元通りであった」とされていますが、養子縁組にしては養子先の家に引っ越す事もなくそのまま家族と暮らしていた事や母方の姓は小崎なので矛盾する点が多い。
そこで長坂益雄氏のブログ「佐治敬三氏養子縁組改姓の謎」において非常に興味深い記事を執筆されています。
ちょうどこの年、昭和6年の山崎蒸溜所は運転資金が尽き一切の稼働を中断している事も何か関係があるかも知れません。
浪速高等学校高等科理科乙類を経て、1940年(昭和15年)父の勧めもあり大阪帝国大学理学部化学科に進学。
1942年(昭和17年)卒業と共に海軍に入隊、終戦後に寿屋に入社。
5-2 横行する闇市
3月闇酒横行、メチール致死事件続発。
いわゆるヤミ市には安価な芋、麦などの糖質を発酵させて造った「カストリ」燃料用アルコールを水で薄めた「バクダン」と呼ばれる密造酒を出す飲み屋が無数に立ち並んでいました。
「バクダン」にはメチルアルコール入りのものがあり、死者や失明者が続出したのに対し、「カストリ」は鼻につく匂いはあるものの、中毒の心配が無かったとされ、新聞社や出版社が集まっていた有楽町界隈には、酒好きの多い作家や記者、編集者などの集まるカストリの屋台が林立していたようです。
4月1日、被災した大阪工場の一部を復興し、蒸溜作業を再開、同時に製樽専門工場として泉大津市に泉大津工場を開設
更にはトリスウイスキーを、戦後改めて発売。
11月3日、日本国憲法公布。
1947年(昭和22年)
1月30日、佐治敬三取締役に就任。
4月、社歌制定。
余談ですが、日本で最初に社歌というものが確認されたのは1917年の満州鉄道会社の『満鉄の歌』とされています。
その後、1920年代の後半から1930年代にかけて第一次社歌ブームが訪れます。
この頃に生まれた国内の社歌は戦前、戦時中ということもあり軍歌のようなイメージが強かったようです。
1930年代には鹿島建設や松下電気などの現在も日本の代表として活躍する企業が社歌を制定し、寿屋はやや遅れての採用となりますが、寿屋の社歌は最初は4番までだった歌詞が、徐々に増え続け現在はなんと7番まであるという珍しい社歌です。
サントリー広報部に問い合わせた所、残念ながら歌詞の全容を教えてはくれませんでしたが調べたところ
歌詞の序盤は赤玉スイートワインについて歌っており、1950年に追加された5番にはトリスウイスキーのトリスが歌詞の中に入っているらしく、1966年には参入したばかりのビールについて歌っている6番が追加されたそうです。
さらに2002年には企業理念を歌詞の中に入れた7番が追加されています。
サントリーの新入社員の方は歌詞を覚えるのに苦労を要しているようです。
7月、赤玉生葡萄酒発売。
8月1日、「ヘルメスペパーミント」発売。
1948年(昭和23年)
9月1日、山崎工場にて製パン用の「サントリーイースト」を製造発売
5-3 後の名誉会長 鳥井道夫
1949年(昭和24年)
7月21日、三男鳥井道夫入社
10月16日、戦後最初の新聞広告を出し、トリスウイスキーのキャッチフレーズ「うまい・やすい」の使用を開始
11月11日、取締役佐治敬三、専務取締役に就任
「ヘルメス・オレンジキュラソー」を製造発売
1950年(昭和25年)
1月1日、トリスウイスキーのグラビア刷り一ページ新聞広告を出す
3月1日、トリスウイスキーの製造を大阪工場に移し、増産に努める。この頃から大量販売始まる。
4月1日、洋酒の価格統制撤廃。自社で独自の販売価格が決められるようになる。
8月「サントリーウイスキー白札ベビー」を製造発売(最初のベビー瓶)
大黒葡萄酒の「オーシャンウィスキー」関西進出。
3級ウイスキーの需要が伸び始める。
発表から10年の時を経て「サントリーオールド」発売

6.ただでは起きない、だるま
戦時下の影響を受け販売が許されなかったオールドが満を持して発売されます。
3級ウイスキーの影響で低価格帯のウイスキーも手に取りやすくなり、以前よりもウイスキーがより身近になったおかげでサントリーオールドの売り上げも徐々に伸び、1980年(昭和55年)には1億3000万本以上を出荷。
海外にも輸出され、この年の売上げの半分を占める程の人気商品に成長し、サントリーを代表する商品の一つとなっていきます。

6-1 オールドショック
好調な売り上げを叩き出したものの、翌年1981年に消費者連盟がサントリーオールドの成分調査を実行「オールドショック」と言われる事案が発生。
モルト原酒27.6% グレンウイスキー45.1% 汲水26.1% 甘味果実酒0.8% リキュール0.4% カラメル0.6%といった成分が検出。
消費者連盟の見解からは熟成されていない少量の原酒に穀物アルコールを加えて、カラメルやリキュールを使って味や色を調整していただけのものだった可能性があると指摘、判断されたのです。
サントリー側の回答は「オールドの成分に45.1%含まれている「グレンウイスキー」は穀物を意味する「グレーン」ではなく、製造地の山崎峡という地名にちなんだ渓谷の「Glen(グレン)」である、という回答に留められますが真相ははっきりとしていません。
当時は特級表記をするためには樽の熟成年数の申請が不要だった事も一つの要因といえるでしょう。
現在は山崎蒸溜所の原酒が使用されており、だるまやたぬき、または黒丸等の愛称で親しまれ、オールドパーと並びボトルの形状から決して転ぶ事が無いという事から、縁起物としてよく飲まれています。
現在もサントリーオールドは毎年その年の干支をプリントしたラベルが発売されています。
1951年(昭和26年)
1月1日、泉大津工場を廃止、大阪工場内に製樽工場を移設
3月、東京醸造「トミーモルトウイスキー白ラベル」発売
4月1日「サントリー・ソーダ」を製造発売
6月1日、贈答用の「デルクス・トリスウイスキー」を製造発売(最初のデルクス瓶)
6月15日、内閣総理大臣の吉田茂氏山崎工場を見学。
同月「ヘルメス・ホワイトキュラソー」を製造発売。
この年、甘味葡萄酒の売行き戦前の水準に復し赤玉がトップ、蜂、大黒、皇国が続く。
1952年(昭和27年)
4月「チェリーブランデー」製造発売
6月11日、札幌出張所を札幌市南一条西五丁目に開設
この頃、大日本果汁株式会社、社名変更してニッカウヰスキー株式会社となります。
カルピスのように希釈して飲むジュース「トリスコンクジュース」製造再開し販売。
6-2 三級ウイスキー盛況
この年、三級ウイスキー洋酒界が中心勢力となり、トリスにつづいてニッカ、アイデアル、トミー、アルプ、シルバーフォックス、オーシャン等との競争激化。
1953年(昭和28年)
2月20日、戦時中休刊の寿屋商報『発展』を復刊。
3月1日、明仁皇太子殿下渡英に際し「サントリー・プリンスウイスキー」のご下命を受ける。

同日「新酒税法施行」清酒、合成清酒、濁酒、焼酎、みりん、白酒、ビール、果実酒、雑酒の九種類に分けられ雑酒(洋酒)は特級、第一級、第二級の三級別になります。
階級別に分けられたウイスキーはアルコール度数43度以上で本格ウイスキー混和率30%のウイスキーの事を「特級」、40度以上でウイスキー混和率5%以上を「一級」、特級、一級のどちらでもない物を「二級」とし、アルコール度数と混和率により酒税が分けられました。
4月、トリスウイスキーの飲み方として「冬はホット」「夏はハイボール」を重点的に宣伝しはじめる。
6月1日、名古屋出張所を名古屋市千種区覚王山通三丁目に開設。
10月10日、佐治敬三が中心となって呼びかけ公募し、新国民歌「われら愛す」発表。
国民歌とは国家とは異なるものの、広く国民が認知し歌唱されることを目的としたもの。
例えば甲子園のテーマソングとして広く知られる「栄冠は君に輝く」や、「新しい朝が来た 希望の朝だ」のラジオ体操の歌など耳なじみの深い物が多い。
1954年(昭和29年)
1月29日、作田耕三、平井鮮一、本多久吉、鳥井道夫の各取締役常務取締役に就任、白江蔚、柴野武夫、松宮節郎、取締役に就任。
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