1.はじめに
ここでは膨大な資料から諸説あるウイスキー誕生の歴史を編纂し、当時の日本と照らし合わせながら進めていきます。
1-1.ウイスキーの誕生と語源
「ウイスキー」という言葉の語源はゲール語でウシュク・べ一ハ(Uisge Beatha)と言われており、歴史上はじめての文献が1172年イングランド王ヘンリー2世がアイルランドを侵攻した際に兵士がアイルランドの蒸留酒「ウスケボー」について報告した内容が書かれていると伝わっていますが現在立証できる資料が無い為、公的には1494年とされています。
12世紀にアイルランドを占領したイングランド軍には、この言葉がウイシュギ(Uishgi)と聞こえたという記録が残されており、それが後にウスケボウ(Usquebaugh)となり、ウスケ(Usuque)、ウイスキー(Whisky)と変化していきました。
現存する最古の記録としてあるのは仔牛皮の巻物に1494年スコットランド王室財務記録帳に「王の命令により修道僧ジョン・コーに8ボル(約500キロ)の麦芽を与え、アクアヴィテ(ラテン語で命の水)を造らしむ」とあります。
「ウイスキー」という名詞が書面に初めて書かれたのが1755年サミュエルジョンソン博士が編纂した英語辞典に記載されている。
その英語辞典には「香料とともに出てくる蒸留物」とされており、当時は熟成させることは無くニューポットに香料等で味付けされていたと考えられる、いわゆるイミテーションウイスキーだったようです。
1-2.密造から始まったウイスキー
ではいつから熟成が行われていたかというと1644年~1823年の密造時代のさなかであるとされ、そのほかピートでの麦芽乾燥の技術もこの200年近く続いた密造時代に培われます。
熟成の発端は政府の取り締まりからウイスキーをシェリー樽に入れて隠したことから始まりました。
1644年スコットランド議会が導入した「ウイスキー税」は結果として密造を招き、奇しくもスコッチウイスキーの礎を築くきっかけになった出来事と言えるでしょう。
この事が後にハイランドとローランドの味や製法の個性を生み出す事に繋がります。
ハイランド地方は険しい山々や、流れの激しい渓流と言った厳しい自然環境に囲まれており、作ったウイスキーを隠すのに打ってつけ、かつウイスキー作りに適した環境が偶然にも揃っていたのは、まさに僥倖と言えるでしょう。
更にハイランドのなかでもスぺイサイド地方が特に身を隠しやすく密造者が集まった結果、現存するスコットランドの蒸留所(約100か所)の半分がこのスぺイサイドにあります。
一方、ローランド地方は密造が思うようにうまくいかず、廃れていきます。
その原因は穏やかな丘陵地帯にありました、見晴らしの良い環境で密造を行なうことには、やはり限界があったのでしょう。
ポットスチルに改良を加えて一度に大量生産し対抗を試みるも品質の低下を招きローランドモルトは
徐々に衰退の一途を辿っていきます。
しかし、後述のカフェスチルの登場により、ローランドはグレーンウイスキー製造に注力し息を吹き返していくのです。
のちに1707年イングランドに併合されたスコットランドは、ウイスキー税を更に引き上げますがそれも徒労に終わります。
1713年更にはウイスキーの麦芽の量に対して課税される「麦芽税」が導入されますが製造者達は発芽していない大麦、小麦、ライ麦も原料に使うことで税金を下げようとしました。
これがグレーンウイスキーの始まりと言われています。
1823年ようやくいたちごっこだと気づいた政府は「ウイスキー製造認可料」を導入し、製造者達は晴れて堂々とウイスキー作りをする事ができるようになりました。
そのライセンス取得第一号があのグレンリベットなのです。
2.蒸留器誕生
そして、ウイスキーを作る上で欠かせない「蒸留器」の歴史についても触れておきたいと思います。
2-1.医薬用から生まれた蘭引き(ランビキ)
蒸留器に関する文献がほとんど無く最も古いものはメソポタミアのテぺガウラ遺跡で紀元前3500年前に香料用の蒸留器が発見されています。
日本に蒸留器が伝来したのは16世紀中ごろ(安土桃山~江戸時代初期)琉球王国で焼酎作りが始まり、17世紀頃に薩摩藩の琉球侵攻の際、薬用の泡盛が江戸、京都に伝わっていった。
その後、東南アジア製のアランビック蒸留器が上陸し、このアランビックを参考にしながら蒸留器「ランビキ」が完成します。
漢字で「蘭引き」と書きます。
アランビックが転じた事と、蘭学者が医薬用に使用していた事から名付けられました。
陶製のものが多いいですが、銅製の物も発見されています。
2-2.現在のポットスチルの原型
現在よく目にしているポットスチルの原型は卓上サイズの蒸留器でしたがベル型、ペリカン型、ツイン型、 トリプルクローズ型、タートル型、ホーン型など様々な形が生まれ改良されていきました。
16世紀初頭まではガラス製と金属製の蒸溜器が人気でしたが、高価で破損しやすいという難点がありました。
陶器でできた蒸溜器は安価で製造しやすく、熱効率を上げるために内部に釉薬を塗って使われていました。
金属の蒸溜器は真鍮、白目、青銅、銅などの他に、毒性のある鉛までが耐久性と利便性のために使用されていました。
17世紀初頭から銅の価格が下がって入手が容易になると、蒸溜品質に優れていることからスピリッツに最適な素材として優先的に使用されるようになりました。
2-3.カフェ式スチルの誕生
1826年スコットランド人のロバート・スタインが連続式蒸留器の開発に成功、更にこの連続式蒸留器を改良し、1831年に特許を取得したのがアイルランド人のイーニアス・コフィ。
コフィーの名前を取ってコフィースチル(カフェスチル)または英語で特許という意味のパテントスチルとも言います。
連続式蒸留器の登場によりウイスキーの大量生産が可能となり、ローランド地方はこれを積極的に取り入れ、グレーンウイスキーの増産が始まります。
一方、ハイランド地方は従来の単式蒸留器での製法を維持し続けました。
2-4.日本でも使用されているカフェスチル
現在も世界的に数は少なくなっているものの、稼働しているコフィースチルもあります。1963年、ニッカウイスキーの竹鶴政孝が、本場スコットランドに負けないブレンデッドウイスキーを生み出す夢をかけて導入しました。宮城峡蒸溜所で作られた「カフェモルト」「カフェグレーン」は話題を呼び、世界でも高い評価を受けています。
2-5.史上初、ウイスキーのブレンド
この後、1853年これまでのウイスキーは完成すると樽からそのまま売り出されていた為、同じメーカーのウイスキーでも味にばらつきがありクレームになる事もあったようです。
いつでも同じクオリティのウイスキーを売りたいと考えたエディンバラの商人アンドリューアッシャーは取り扱っていたグレンリベットのシングルカスク同士を混ぜ合わせる事を思いつき、味の均一化に成功しました。
史上初のブレンデッドモルトウイスキーが誕生した瞬間でもあり、ブレンダーの始祖とも言えます。
通称スミスのグレンリベット「アッシャーズオールドヴァテッドグレンリベット」が完成し、アメリカのノーフォーク軍港を出発したマシュー・カルブレイス・ペリーがこれとアメリカのライウイスキーを持って日本を目指します。
3.ウイスキー誕生までの年表
年代 | 出来事 |
紀元前3500年 | メソポタミアのテぺガウラ遺跡にて香料用の蒸留器が発見される |
1172年(平安時代後期) | イングランドがアイルランドを侵攻した際に「ウスケボー」について報告したとされる内容が伝わる |
1494年(戦国時代) | スコットランドにて「王の命令により修道僧ジョン・コーに8ボル(約500キロ)の麦芽を与え、アクアヴィテ(ラテン語で命の水)を造らしむ」と記述 |
16世紀中ごろ(江戸時代) | ランビック蒸留器日本伝来。「蘭引き」完成。 |
1644年 |
スコットランド議会が「ウイスキー税」導入。密造時代に突入 |
1707年 | スコットランド、イングランド併合ウイスキー税を更に引き上げ |
1713年 | スコットランド議会 「麦芽税」導入 |
1755年 |
サミュエルジョンソン博士が英語辞典を初めて作り、そこにはウイスキーの記載がされる |
1823年 | 「ウイスキー製造認可料」を導入。グレンリベットが製造ライセンス取得第一号 |
1826年 | スコットランド人のロバート・スタインが連続式蒸留器の開発に成功。 |
1831年 | カフェスチルのイーニアス・コフィ、特許を取得 |
1852年 | 東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー、ノーフォーク軍港出航。 |
1853年(江戸時代後期) | 初のブレンデッドモルト。 通称スミスのグレンリベット「アッシャーズオールドヴァテッドグレンリベット」が完成。 |