1.天下の分け目
1923年(大正12年)
第一次世界大戦の戦後恐慌が未だ猛威を振るう。
1月22日、三男「道夫」誕生。
本格的なウイスキー作りにいよいよ取り掛かりたいと考えていた信治郎は、三井物産からの紹介で当時のスコットランドの醸造学の権威ムーア博士と雇用契約を結ぼうと連絡を取ると『日本に腕のいい技師がいる。しかも日本人だ』と意外な返事が返ってきます。その人物は信治郎が摂津酒造の腕利きとして以前から注目していた人物、「竹鶴政孝」でした。
1-1 キャンベルタウンのあの男
竹鶴政孝はスコットランドにあるエルギンのロングモーン蒸溜所とキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸溜所で研修後、竹鶴ノートを岩井喜一郎に託し、いざ蒸溜所を建設しようとした時に世界恐慌がそれを許さず、竹鶴政孝は摂津酒造を退社。
科学の教師をしながらウイスキー作りへの情熱を燻ぶらせている所に信治郎は現れます。
1923年(大正12年)
6月、竹鶴の元に訪れ三度の交渉の末、10年間の雇用契約、年棒4000円(約1000万円)で竹鶴政孝がついに寿屋に入社。
信治郎がどれだけの期待を寄せていたか、この金額から伺い知れます。
7月、開函通知制度実施開始。
開函通知制度とは小売店に届いた赤玉ポートワイン4ダース入りの大きな箱を開けると一枚のはがきが同封されており、店名を書いて返送すると割戻金が送られてくるという、いわゆるリベートシステムを採用。小売店からデータを集め商品の流れを確かめる流通調査が主な目的です。その他にも取引先の小売店で働く従業員に向けて万年筆やシャープペン、財布などを同梱しプレゼントしました。従業員たちは次の赤玉を発注し景品を貰おうと我先にと売りはじめました。
9月、関東大震災により、東京出張所被災。
10月、関東大震災の傷跡も癒えぬ内になんと信治郎は大阪府三島郡、島本村大字山崎に、用地を買収し、我が国最初のウイスキー蒸溜所『山崎蒸溜所』の建設に着手します。
1-2 ジャパニーズウイスキーの始まり
山崎は、万葉の歌にも詠まれた水生野(みなせの)と言われる日本の名水100選の一つにあたり、千利休もこの「離宮の水」を用い茶室「待庵(たいあん)」で豊臣秀吉をもてなしたとされています。
この待庵は現在、千利休が実際に茶室を作成したという確かな証拠があるものとして伝わる現存する唯一の茶室です。

木津川、桂川、宇治川の三川が合流しており、大阪の平野と京都の盆地の接合点で濃霧が発生し、空気が乾燥しにくい特性を持つ土地です。
竹鶴政孝は北海道余市でのウイスキー作りを勧めましたが、信治郎はウイスキー作りの品質はもちろん商品搬出のしやすさ、町から近い事で工場内の見学も視野に入れており、商人としての知見で政孝を説得するに至ります。
ムーア博士に水質調査を依頼し、軟水のなかでも硬度の高い軟水でウイスキー作りに打ってつけであるとお墨付きをもらい、幸いにも近くに果樹園等が無く、ウイスキー酵母の発酵を妨げる有害な菌が無い事でミクロフローラ的にも良いと、まさに様々な条件が奇跡的に折り重なって、この山崎の地でジャパニーズウイスキーの歴史的な第一歩を歩み始めます。
12月28日、ウイスキー製造免許に関する申請書を大阪税務監督局へ提出。

1924年(大正13年)
4月7日、山崎蒸溜所にウイスキー製造免許下付される。
4月15日、山崎蒸溜所起工式が行われる。
この頃よりウイスキーの運用資金を生み出すために様々な商品が次々に開発され、販売、事業の拡大を図ります。
同年10月、築港工場に加味品工場を設けパームカレーを製造販売
11月11日山崎蒸溜所完成。
この日、11月11日を記念して現在も隣接する椎尾神社にて秋の祭礼が執り行われています。
12月より蒸溜作業を開始。

ここまで蒸溜所の場所の選定、建設と大変な苦労がありましたが、もうひとつの壁が酒税でした。この頃の酒税は清酒を中心に考えられた税法で、造石税というものでした。造石税は作ったお酒の量に対して税率が決まります。
造石税を適用されると、蒸溜したばかりのまだ売りに出せない原酒にすぐさま課税されてしまいます。
ウイスキーへの理解を求め、信治郎は関係当局に何度も嘆願し、出庫税という結果を勝ち取ったのです。
12月、日本茶精株式会社の製造技術を寿屋が指導し、レモンティーシラップ「レチラップ」を発売。
1-3 スモカとビール
1926年(大正15年)
7月、喫煙家用半練りの歯磨き粉「スモカ」を製造発売。
紙袋入りの粉歯磨が主流の時代に潤製丸缶入り高級歯磨粉として注目を集めます。片岡敏郎の打ち出すキャッチフレーズは「タバコ飲みのスモカ」とし日刊紙の小スペースに毎日のように広告を掲載したのが功を奏し爆発的な人気に。

12月25日、大正天皇が崩御し元号は昭和へと変わります。
1927年(昭和2年)
9月1日、社長信治郎への社内での呼び方については「主人」または「大将」と呼ぶように全社員に通達。(※サントリー社史に記載してあります)
1928年(昭和3年)
10月17日、東京出張所を日本橋区蛎殻町一丁目六八に移転。
同年12月1日、カスケードビールを製造する「日英醸造株式会社」の麦酒工場を買収、横浜工場とし翌年からビールの仕込みを開始します。この時、竹鶴政孝が横浜工場の工場長を兼任することになります。
この年からサントリーの長い歴史の中でビール事業は苦戦が続き、信治郎は事業から撤退を決意します。
その後1963年に二代目社長「佐治敬三」が再び事業を再展開、佐治敬三の死後、鳥井信一郎、佐治信忠と世代を超えて意思を繋ぎ続け、なんと45年をかけて2008年サントリー史上初めてビール部門黒字の悲願を達成します。
山崎蒸溜所内に醤油工場を設けトリスソース発売。
1929年(昭和4年)
4月1日、我が国最初の本格ウイスキー『サントリーウイスキー白札』が発売されます。
2.我が国初のウイスキー
『サントリーウイスキー白札』の値段は4円50銭。
価格を比較してみると清酒は一升2.1円(約40銭)国家公務員の初任給が約75円、大卒初任給73円、中卒となると30円~35円ほどの給料となり、昭和5年ごろの日雇い労働者の日給は1円60銭なので『白札』がどれほどの高級志向として売り出していたかという事がよく分かります。

河内産二条大麦で品種は大麦ゴールデンメロン種、使用された樽は赤玉ポートワインの原料に使われていた物と思われる、スペインのカディス産シェリー樽。
製麦はフロアモルティングでピートはスコットランドからの輸入。モルトミルとマッシュタンは、ポーティアスのライセンス会社、イギリスのリーズにあるブリュワーズエンジニア社と言われています。

ポットスチルは石炭直火で、初留釜は谷甚鉄工所、再留釜は渡辺銅工所がそれぞれ製作しています。直径約3.4m、高さ約5.1m、重さ約2トンという巨大なポットスチルを、蒸気船に乗せて淀川をさかのぼり、陸揚げの後はコロを敷き列車が通るのを考慮し深夜に運ばれました。
信治郎の日本初のウイスキーは素材、機材共に一切隙の無いものでした。
2-1 断じて舶来を要せず
全てにおいて妥協することなく世に白札を送り出しますが、時代を先取りし過ぎていた事、主なターゲットである上流階級層や信治郎のすすめで白札を飲んだ顧客達から「焦げ臭くて飲めない」と意見が出てしまいます。
ピートの焚き過ぎと大日本麦酒から分けてもらっていたビール酵母と発酵工程に主な要因があったようです。
今ならそのスモーキーな味わいが好評を博したかもしれませんが、当時の日本人の舌が西洋文化にまだまだ馴染めていない事が最も大きな原因でした。

この白札の最初の第一号目のウイスキー樽が実は山崎蒸溜所に現在も保存されています。現在は「サントリーホワイト」として、いまなお多くの人に愛されています。